廃虚

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コンテンツに対する愛の形とは? 遊戯王を観たお気持ち

愛の本質とは?

 遊戯王というコンテンツはその起源が週刊少年ジャンプで連載されていた漫画であり、途中からその中で行われたゲームの一つとしてのカードゲームを売っていく路線に変更し、今日カードゲームとしてのコンテンツになったという異色の経歴を持っています。

 

 先日、「YP(遊戯王OCGをプレイする人の事と言われることが多い)はカードはやるけどグッズを買わないしアニメも馬鹿にする、遊戯王というコンテンツに対する愛が無い」というツイートを目にしたので、自分が感じたことをここに記していきたいと思います。

 

 

 

 1

まずYPはカードにしか興味が無い、という点について。私としてはそもそもアニメを観ていない,グッズを買わない=カードゲームをすることしか興味が無いというステレオタイプな型に当てはめ対立構造を作る事自体がナンセンスであり、望んでか望まないかは判断できませんが勝者と敗者、敵と味方という概念を作り出すことで「あいつは敵だから何をしてもいい」という感覚を作り出そうとしている様に思えてならないのです。これでは最初から闘争状態になり、妥協点を見つける前段階に至ることすら不可能です。私達が考えるべきは「どうすれば多くの人が楽しく快適になれるか」であり、敵を作り出して戦うことではないでしょう。

 確かにカードゲームをやっていると「何なんだこいつは…」と感じられるような、自分本意な、自分だけが楽しめれば良いと考えるような人間には沢山出合います。例えば他人のカードを勝手に奪おうとするような。そういった人々に対し拒否の態度を取ることは間違いではありません。腐ったミカンは他のミカンも腐らせるのですから。

 2

本題に戻りますが、OCGをプレイしている人が遊戯王というコンテンツに興味を持たないという事についてです。これについては、文頭に挙げたように遊戯王が辿ってきた足跡を辿るのが良いでしょう。

 先程述べたように、遊戯王というのは元々カードゲーム漫画ではありませんでした。原作を読んでいた世代の方々はその時の感性を大事にして、「高橋和希先生はカードゲーム作品を書こうとしていた訳では無い。カードの販促の為のデュエルよりもストーリーを大事にする姿勢が大事だ」と考えるのも無理はありません。

 しかし、遊戯王の漫画は10年以上前に完結しました。最終巻のあとがきにおいて高橋和希先生はこのように言っています。

ボクの中での『遊戯王』は一応の完結を迎えました。しかし、世界中で、ボクの作品やカードを手にしてくださる方がたくさんいます。ボクはその感謝の気持ちを込め、もう少しの間だけ、『遊戯王』ワールドを広げていきたいと思っています。

 つまり、高橋先生にとっての遊戯王は原作をもって完結しているのです。確かにその後もキャラクターデザインを作るなど、遊戯王に対して関わっています。ですが、ここまで遊戯王が続いたのは高橋先生の力によるものでは無く、間違いなく当時カードで遊んでいた人達の力、カードゲームとしてモノにしていこうとしていた人々の力によるものです。だからカードゲームその物大事にすべきだという路線は何も間違っていません。むしろ遊戯王アニメはそこに対する意識が著しく欠けていると言って良いレベルです。

 それに、カードゲームとしてのOCGが好きという感情と、娯楽作品として別のコンテンツが好きという感情は当然両立します。遊戯王は20年以上続いているのだからOCGをやっていても原作を知らないという人が出てくるのも当然です。そこを考えずに「遊戯王が好き=カードもグッズも全部買って当然」だという考えるのは思想の押し付けであり、個々人の事情を無視する傲慢な、尺字定規的な考え方だと思います。そこはハッキリと否定しておきたい。

 

 

 

ballangel.hatenadiary.jp

 

 

カードプロテクターインナーガードJr. (対応カードサイズ:86mm×59mm)

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結論

 私は一個人が一つのコンテンツを隅から隅まで愛するという気持ち自体は否定するつもりはありません。否定できる訳ではありません。しかし、自分がこう思っているのだから他人も同じように思うのは当然だという極めて自分本意な意識では軋轢が生まれるのも当然です。ゲームというのはコミュニケーションの一種なのだから、相手も自分も快適にやれるよう過度に相手に関心を持たない、誰とでもわかり会う能力が自分には有ると思わない事を前提にして皆が良い思いをできる環境作りをする意識がこの先私達が快適にやっていく為には必要でしょう。